2011/03/31
輝け!僕の小学時代
小学3年生のとき、同じクラスの田中君(仮名)の上履きが盗まれた。
正式には隠されたと言うのが正しいのか。
先生は一人一人呼び出し、事情聴取。
でも誰も知らない。
あげくの果てに田中君の自作自演ではないかと言う、なんとも非行に走ってしまいそうな結論をみんな心の中で思っていた。
それを知ってか知らずか、田中君の提案で僕と田中君、あと女子3人で放課後探す事になった。
めんどくせーーーーーー!という声が出そうになったのを必死でこらえ、参加する事に。
このとき、探すメンバーの中に田中君のお気に入りの女の子がいたようで、自分の上履きがなくなっているにもかかわらず終始笑顔だった。
あの笑顔を思い出す度に、田中君の自作自演説はまんざらでたらめでもないかもなと大人になった今も思う。
で、僕は僕で、このとき女子の2人に「あたししげる君と探す!」「あたしもしげる君と探す!!」と両腕にしがみつかれ、鼻の下をダラダラと伸ばしながら、わざと女の子が引っ付くように暗闇を探して回ったという大バカもの。
結局、靴は見つからなかったが、誰も損をしなかったと言う不思議にな事件だった。
田中君は、その後転校。
真実を知るものは誰もいない。
僕の小学3年生は割と色気めいていた。
正式には隠されたと言うのが正しいのか。
先生は一人一人呼び出し、事情聴取。
でも誰も知らない。
あげくの果てに田中君の自作自演ではないかと言う、なんとも非行に走ってしまいそうな結論をみんな心の中で思っていた。
それを知ってか知らずか、田中君の提案で僕と田中君、あと女子3人で放課後探す事になった。
めんどくせーーーーーー!という声が出そうになったのを必死でこらえ、参加する事に。
このとき、探すメンバーの中に田中君のお気に入りの女の子がいたようで、自分の上履きがなくなっているにもかかわらず終始笑顔だった。
あの笑顔を思い出す度に、田中君の自作自演説はまんざらでたらめでもないかもなと大人になった今も思う。
で、僕は僕で、このとき女子の2人に「あたししげる君と探す!」「あたしもしげる君と探す!!」と両腕にしがみつかれ、鼻の下をダラダラと伸ばしながら、わざと女の子が引っ付くように暗闇を探して回ったという大バカもの。
結局、靴は見つからなかったが、誰も損をしなかったと言う不思議にな事件だった。
田中君は、その後転校。
真実を知るものは誰もいない。
僕の小学3年生は割と色気めいていた。
2011/03/30
2人のルール
思いっきり最初に断っておきたいのだけれども、今日のお話は僕の個人的な見解。
僕の個人的な見解ではあるけど、「恋愛経験の少ない人は融通が利かない」と言うのがある。
恋愛経験の少ない人は何かと自分の意見を押し付けてくる事が多いように思う。
それが正しい事であればあるほど、「正しい事してるから良いじゃないか!あんたもそうしな!!」と押し付けて来る。
僕の古くからの友人(30年彼女なし)もあるときメールで「○○(某アーティスト)のインタビューが載っていて大変素晴らしかった。絶対読んだ方が良い!絶対見てください」と送って来た。
これは優しさだろうけど、僕とて同じアーティスト。
何で絶対読まなあかんねん!と学生バリの反抗期が出てしまう。
「○○のインタビューが載っていて大変素晴らしかったよ。しげる君に似てるかも。」とか、「しげる君ならどう感じるんやろ?」など言葉を選べば良かったと言うのもあるし、本当にそのインタビューが良かったかどうかも分からない。
正しさはいつも1つではない。
例えば、喧嘩している2人がいて、双方から事情を聞いたとき、どっちにも正義がある。
これはほとんどがそうだ。
親しき仲であればあるほど、どっちかが一方的に悪い事はまずない。
それでも恋愛経験の少ない人は自分の正しさこそが正義と押し付ける傾向にある。
それはなぜか?
恋愛の素晴らしさの1つに「2人のルール」が出来ると言うのがある。
「2人のルール」とは恋人同士で決めた決まり事。
この「2人のルール」は、相手が変わればまたルールは変わっていく。
新しい恋人が出来て、自分は前の恋人と同じルールを貫きたくても、相手が拒めばその妥協点を見つけ、2人でまた新たなルールを組み立てて行く。
たとえ話をすると、「毎日朝・昼・晩とメールが欲しい」と彼女が言う。
でも彼氏は「仕事で無理だから、せめて一日一回にしてくれ」とお願いする。
これで話し合ってルールが決まる。
このルール決めはお互いの意見を認めあうと言うところにある。
恋愛は自分の我だけを通していてもうまくいかない。
ときには納得していなくても折れなくちゃいけない時もある。
理不尽であっても甘んじて受け入れなければいけない時もある。
そういうなかで譲り合ったり、融通を利かせたりする事を学ぶのだと思う。
もちろんそれらは愛があるからこそ我慢も出来るのだ。
こう書いたからと言って、恋愛経験が乏しい人が悪だと言っているつもりはない。
ただこういう傾向にある事は知っていても損はないと思う。
恋愛で学ぶ事は沢山ある。
恋は人を成長させる。
自分の意見を通す事ばかりではなく、相手の事を思いやり、相手への気配りをする。
それこそが恋愛のはじめの一歩だと思う。
さぁ、恋をしよう。
僕の個人的な見解ではあるけど、「恋愛経験の少ない人は融通が利かない」と言うのがある。
恋愛経験の少ない人は何かと自分の意見を押し付けてくる事が多いように思う。
それが正しい事であればあるほど、「正しい事してるから良いじゃないか!あんたもそうしな!!」と押し付けて来る。
僕の古くからの友人(30年彼女なし)もあるときメールで「○○(某アーティスト)のインタビューが載っていて大変素晴らしかった。絶対読んだ方が良い!絶対見てください」と送って来た。
これは優しさだろうけど、僕とて同じアーティスト。
何で絶対読まなあかんねん!と学生バリの反抗期が出てしまう。
「○○のインタビューが載っていて大変素晴らしかったよ。しげる君に似てるかも。」とか、「しげる君ならどう感じるんやろ?」など言葉を選べば良かったと言うのもあるし、本当にそのインタビューが良かったかどうかも分からない。
正しさはいつも1つではない。
例えば、喧嘩している2人がいて、双方から事情を聞いたとき、どっちにも正義がある。
これはほとんどがそうだ。
親しき仲であればあるほど、どっちかが一方的に悪い事はまずない。
それでも恋愛経験の少ない人は自分の正しさこそが正義と押し付ける傾向にある。
それはなぜか?
恋愛の素晴らしさの1つに「2人のルール」が出来ると言うのがある。
「2人のルール」とは恋人同士で決めた決まり事。
この「2人のルール」は、相手が変わればまたルールは変わっていく。
新しい恋人が出来て、自分は前の恋人と同じルールを貫きたくても、相手が拒めばその妥協点を見つけ、2人でまた新たなルールを組み立てて行く。
たとえ話をすると、「毎日朝・昼・晩とメールが欲しい」と彼女が言う。
でも彼氏は「仕事で無理だから、せめて一日一回にしてくれ」とお願いする。
これで話し合ってルールが決まる。
このルール決めはお互いの意見を認めあうと言うところにある。
恋愛は自分の我だけを通していてもうまくいかない。
ときには納得していなくても折れなくちゃいけない時もある。
理不尽であっても甘んじて受け入れなければいけない時もある。
そういうなかで譲り合ったり、融通を利かせたりする事を学ぶのだと思う。
もちろんそれらは愛があるからこそ我慢も出来るのだ。
こう書いたからと言って、恋愛経験が乏しい人が悪だと言っているつもりはない。
ただこういう傾向にある事は知っていても損はないと思う。
恋愛で学ぶ事は沢山ある。
恋は人を成長させる。
自分の意見を通す事ばかりではなく、相手の事を思いやり、相手への気配りをする。
それこそが恋愛のはじめの一歩だと思う。
さぁ、恋をしよう。
2011/03/29
輝け!僕の小学時代
俺にはじめて彼女が出来たのは小学5年生。
これを知人に話すとみんな驚き一斉にはやいと言うが、そうなのだろうか?
僕は幼稚園ですでに好きな人がいた。
小学生にもなると好きな人の1人や2人出来るもんである。
それがたまたま両思いになって、気が付けば付き合っていたと言うお話。
ちなみにその彼女はクラスで一番モテている女子。
こちとら男子には人気あるが、騒ぎ過ぎて一部の女子からは嫌われている男子。
そんな僕らはあるとき、同じ席になった。
この嬉しさたるや。
みんなも経験あったと思う。
本当は「うぉぉぉぉぉ!」とガッツポーズを決めたいところだが、あろうことか全く逆の「えーーーっ」と眉毛をしかめてしまうのが男子のアホさ全開
なところ。
でも、僕はこの奇跡を逃さずにとにかく事あるごとに話しかけ笑わせた。
鉛筆や消しゴムを彼女に借りて返すのを忘れて帰ってしまった時には、それを家のコタツで抱きしめると言うストーカーまがいの行為をする始末。
さすがに笛を舐めると言うのはいかなかったが、あの頃の男子はアホなので変態と片付けてほしくないなと思う。恋の気持ちを心のどこに置いていいのか、それをどう表現すれば良いのかが分からなかっただけなのだ。
あるとき、彼女の友達から「これ渡しといてと言われたんや」とラブレターを受け取った。
そこにはクラスで一番モテる彼女から、クラスで一部女子から嫌われている僕へのラブレターだった。
ブザービーターを決めた気分。
僕はあまりに嬉しくて、それをどう表現していいか分からず、とにかくタンスに「やったぜ!!」と書いた。
もうそのタンスは3年前の引っ越しでなくなったが、それまでは実家に帰る度に「やったぜ」の文字を見る度に、当時の僕のアホさと純さに触れて目を背けたくなったのを覚えている。
その彼女とは中学3年生まで続いたが、僕の方からお別れを言って終わってしまった。
これが僕の初恋。
本当はこの続きもあるけれど、また機会があれば。
ちなみにこのとき彼女から「好きな色は?」ときかれ、適当に「緑」と答え、今でも誰かに聞かれた時に「緑」と答える赤い服を来た僕がいる。
これを知人に話すとみんな驚き一斉にはやいと言うが、そうなのだろうか?
僕は幼稚園ですでに好きな人がいた。
小学生にもなると好きな人の1人や2人出来るもんである。
それがたまたま両思いになって、気が付けば付き合っていたと言うお話。
ちなみにその彼女はクラスで一番モテている女子。
こちとら男子には人気あるが、騒ぎ過ぎて一部の女子からは嫌われている男子。
そんな僕らはあるとき、同じ席になった。
この嬉しさたるや。
みんなも経験あったと思う。
本当は「うぉぉぉぉぉ!」とガッツポーズを決めたいところだが、あろうことか全く逆の「えーーーっ」と眉毛をしかめてしまうのが男子のアホさ全開
なところ。
でも、僕はこの奇跡を逃さずにとにかく事あるごとに話しかけ笑わせた。
鉛筆や消しゴムを彼女に借りて返すのを忘れて帰ってしまった時には、それを家のコタツで抱きしめると言うストーカーまがいの行為をする始末。
さすがに笛を舐めると言うのはいかなかったが、あの頃の男子はアホなので変態と片付けてほしくないなと思う。恋の気持ちを心のどこに置いていいのか、それをどう表現すれば良いのかが分からなかっただけなのだ。
あるとき、彼女の友達から「これ渡しといてと言われたんや」とラブレターを受け取った。
そこにはクラスで一番モテる彼女から、クラスで一部女子から嫌われている僕へのラブレターだった。
ブザービーターを決めた気分。
僕はあまりに嬉しくて、それをどう表現していいか分からず、とにかくタンスに「やったぜ!!」と書いた。
もうそのタンスは3年前の引っ越しでなくなったが、それまでは実家に帰る度に「やったぜ」の文字を見る度に、当時の僕のアホさと純さに触れて目を背けたくなったのを覚えている。
その彼女とは中学3年生まで続いたが、僕の方からお別れを言って終わってしまった。
これが僕の初恋。
本当はこの続きもあるけれど、また機会があれば。
ちなみにこのとき彼女から「好きな色は?」ときかれ、適当に「緑」と答え、今でも誰かに聞かれた時に「緑」と答える赤い服を来た僕がいる。
2011/03/28
僕はエッセイが好きだ
僕は本を良く読むのだが、ジャンルはさまざまである。
最近は特に読みたい本がなくて困っているけど。
よく本が好きだと言うと、「あぁ、だったらあれ読んだ?」と小説のタイトルを聞かれるけど、小説ばかりではない。
僕はとにかく本が好きなのだ。
大学時代が一番読んだだろうか?
せっかく高い金払って大学来ているのだから図書館の本を読みなさい!と恩師に言われ、とにかく色んな本を読んだ。
もちろん小説も、岩波文庫も、ゲーテの詩を読んで「もっとうまく翻訳せんかいっっ!」と突っ込んだり、カフカの「変身」を読んでは不条理すぎるやろと突っ込んだり、ニーチェの哲学を読んでは「ニーチェを読んでいる今のオレかっこいいんちゃう?」と内容が全く頭に入ってこなかったり。
でも、こうやって歌を歌うようになってからは一番好きなジャンルはエッセイになった。
中でも角田光代さんのエッセイが最高だ。
東野圭吾さん、リリーフランキーサンのエッセイも楽しかったなぁ。
エッセイは人となりが分かるから大好きだ。
みなさんもお気に入りのエッセイがあったら教えてください。
僕は本屋にエッセイと言うジャンルで仕分けしてほしいと常に願っています。
追記、4月9日に渋谷クレストでライブが決まっています。
アップされていていなくてすみません。
色んな事がバタバタなようです。
最近は特に読みたい本がなくて困っているけど。
よく本が好きだと言うと、「あぁ、だったらあれ読んだ?」と小説のタイトルを聞かれるけど、小説ばかりではない。
僕はとにかく本が好きなのだ。
大学時代が一番読んだだろうか?
せっかく高い金払って大学来ているのだから図書館の本を読みなさい!と恩師に言われ、とにかく色んな本を読んだ。
もちろん小説も、岩波文庫も、ゲーテの詩を読んで「もっとうまく翻訳せんかいっっ!」と突っ込んだり、カフカの「変身」を読んでは不条理すぎるやろと突っ込んだり、ニーチェの哲学を読んでは「ニーチェを読んでいる今のオレかっこいいんちゃう?」と内容が全く頭に入ってこなかったり。
でも、こうやって歌を歌うようになってからは一番好きなジャンルはエッセイになった。
中でも角田光代さんのエッセイが最高だ。
東野圭吾さん、リリーフランキーサンのエッセイも楽しかったなぁ。
エッセイは人となりが分かるから大好きだ。
みなさんもお気に入りのエッセイがあったら教えてください。
僕は本屋にエッセイと言うジャンルで仕分けしてほしいと常に願っています。
追記、4月9日に渋谷クレストでライブが決まっています。
アップされていていなくてすみません。
色んな事がバタバタなようです。
2011/03/26
『あの頃のお前へ 10年後のオレへ』
『過去の日記を振り返って読むと、過去の僕はいつも強いのだ。
希望に満ちあふれ、例えどん底でも這い上がろうとしている姿が見えるのだ。
しかし、冷静に考えると、過去の僕が「強い」のではなく、振り返ってそれを読んでいる僕が「弱っている」のだと思う。
人は弱い時ほど過去に振り返る』
20歳〜25歳までの歩道橋の上より
こんばんは。
もう深夜の4時をまわったよ。
今日からたまにお前と話していこうかなって思ってよ。
お前って言うのは、つまりは10年前のオレなんだけどさ。
でもさ、今オレがやろうとしてる事は、当時のお前からしたら弱ってるってことなのかな?
でもね、オレは今日までの自分の音楽人生を少しだけなぞってみたいんだ。
変わったものもあれば変わらないものもあってさ。
今オレはどの辺りなのか知りたくてさ。
お前の10年先にオレがいるわけだろ?
どうなんだろうな。
望んだ場所なのかな?
かっこいいか?おれ。
失ったものってさ、落とし物と一緒で見つからないもんだって分かってるんだ。
だからオレが10年前のお前と話したところで、なくしたものは戻らないのは分かっている。
それでも人は少しだけ昨日が気になるんだ。
それは決してマイナスじゃない。
明日に向かうにはパワーがいる。
時々「今」立ち止まりたくなる。
立ち止まったとき、やっぱり昨日に振り返りたくなるんだ。
今日からたまに話をしていこう。
オレが忘れてしまった事があるならば、教えてくれ。
今日ははじめてだからこの辺で。
オレはお前と話が出来るのがとても嬉しい。
お前はこういうの嫌いだって知ってるけどな。
じゃ、またな。
2011年3月26日、東京の自宅から しげる
2011/03/25
public mind.
ようやく東京も落ち着きかけたと言いたいが言えないかな。
ガソリンは安定し出し、コンビニもぼちぼち食べ物が出始めたが、いまだ「一家族に付きひとつまで」と書かれた商品が並ぶ。
節電で街は暗く元気がない。
余震はまだ大きな揺れが続く。
今回の地震で東京はパニックになった。
その1つに今の日本人にpublic mindが欠けた事が大きな理由だと思う。
public mind.
直訳すると公共心。
少しニュアンスは違うけれど分かりやすく言うならば「本音」と「たて前」。
今の日本は「ぶっちゃけ」と言う言葉が飛び回るどころかムーンウォークをする時代。
心の叫びを世界中におもいっきりつぶやけるものまである。
それはそれで素敵な文化だったりするので否定はしないけれど、非常時にはシフトチェンジしないといけないなぁと痛感した。
publicつまり「公」の場所と「私」の場所の区別がついていない人が多い。
例えば、あなたが普段、家族や友達といった気の許せる人たちとしゃべる時は基本、「私」だと思う。
それに対し「公の場」、例えるならば朝礼台の上でスピーチをする時は「私」を捨てて「公」のあなたになっていると思う。
この「公」に切り替え出来る人が少なくなったなぁと思う。
ウエシマ作戦という言葉が今回の地震でピックアップされた。
ダチョウ倶楽部と言う芸人さんの芸で「オレがやる」「オレがやる」とみんなが手を挙げて最後に上島竜兵さんが手を挙げた時にみんなで一斉に「どうぞ」「どうぞ」と譲り合うというのがあるのだが、つまり買いだめする人もみんな譲り合おうと言う事。
僕は、こんなに噛み砕いて説明しないとこれがpublic mind「公共心」だと分からないのかと愕然とした。
買いだめをする人にはpublic mindがない。
チェーンメールを確認せずに廻してしまうのもpublic mindが足りない。
また「不安だ」「怖い」と言う言葉をすぐにネットでつぶやいてしまうのも、仕方がないのだがpublic mindが少し足りないのだと思う。
そりゃ誰だって怖いさ。
そりゃ誰だってあの映像を何回も見ればどうしようもない気持ちになるさ。
でもそれは「私」の気持ち。
世の中に言葉を発する時はpublic mindを持って、「みんな立ち上がろうぜ!」と叫ぶのだ。
僕がここで
「ぶっちゃけ怖くて逃げたい。気持ちが整理出来ない。
ライブも嫌だ。
姫路に帰りたい。」
なんて書いたらえらい事になる。
もちろんそんな事は思ってもいないが。
だから僕はこの日記を書いている時はpublic mindを強く意識している。
福島の原発でどれほど放射能が漏れているのかわからないのに、そこへ向かった東電の社員、ハイパーレスキュー、自衛隊の方々。
これはpublic mindいがい何ものでもないと思う。
本音を言うと、誰もいきたくない。
みんな怖かったと思う。
でも、そんな「私」の気持ちよりも誰かがいかなければどうなるんだ!というpublic mindが働いたのだろう。
医療用の通信機を持ち出す為に津波に巻き込まれた方の記事を昨日読んだ。
ここにもpublic mindがあった。
オレならどうしただろうか?
いの一番に逃げたのか?
それともその他大勢を助ける為にそこに残りやるべき事をやったのか?
死の淵に立った時。
僕らはどう行動をとるのだろう。
僕は少し分かった事がある。
public mindとは守りたいものがある時にはじめて出てくるものだと思う。
守りたい人。
家族。
愛する人。
友人。
愛した故郷。
「私」の感情を超えて、「死」さえも超えてpublic mindは立つ。
守るべきものの為に。
もちろんこれは決して死ぬ事が美しいだなんて言っていない。
ただ死ぬのが怖い怖いと他人を足でケリ落としてまで、生き延びようとする事がこの国の教えになりつつある。
みんなpublic mindを持とう。
今はなるべく「私」をひっこめよう。
心ない言葉をしまい、活力となる言葉を掲げたい。
君の一言が誰かを救う。
君の行動が世界を照らす。
public mindをもつために、守るべきものを見直そう。
守るべきものを愛そう。
大丈夫、僕らは強い。
追記、とはいえ、今回の地震で東京の電車が止まり帰れなくなった時に、無料で場所を提供した多くの施設や、ホテルや、企業、一般の店舗。
自動販売機を無料にしたサントリー。
たくさんの素敵な日本人の姿も見れた。
この事は僕は日本人として生まれて来て良かったなぁと大変誇らしく思う。
追記2、このpublic mindについてはもう10年近く前にも一度書いていました。
ガソリンは安定し出し、コンビニもぼちぼち食べ物が出始めたが、いまだ「一家族に付きひとつまで」と書かれた商品が並ぶ。
節電で街は暗く元気がない。
余震はまだ大きな揺れが続く。
今回の地震で東京はパニックになった。
その1つに今の日本人にpublic mindが欠けた事が大きな理由だと思う。
public mind.
直訳すると公共心。
少しニュアンスは違うけれど分かりやすく言うならば「本音」と「たて前」。
今の日本は「ぶっちゃけ」と言う言葉が飛び回るどころかムーンウォークをする時代。
心の叫びを世界中におもいっきりつぶやけるものまである。
それはそれで素敵な文化だったりするので否定はしないけれど、非常時にはシフトチェンジしないといけないなぁと痛感した。
publicつまり「公」の場所と「私」の場所の区別がついていない人が多い。
例えば、あなたが普段、家族や友達といった気の許せる人たちとしゃべる時は基本、「私」だと思う。
それに対し「公の場」、例えるならば朝礼台の上でスピーチをする時は「私」を捨てて「公」のあなたになっていると思う。
この「公」に切り替え出来る人が少なくなったなぁと思う。
ウエシマ作戦という言葉が今回の地震でピックアップされた。
ダチョウ倶楽部と言う芸人さんの芸で「オレがやる」「オレがやる」とみんなが手を挙げて最後に上島竜兵さんが手を挙げた時にみんなで一斉に「どうぞ」「どうぞ」と譲り合うというのがあるのだが、つまり買いだめする人もみんな譲り合おうと言う事。
僕は、こんなに噛み砕いて説明しないとこれがpublic mind「公共心」だと分からないのかと愕然とした。
買いだめをする人にはpublic mindがない。
チェーンメールを確認せずに廻してしまうのもpublic mindが足りない。
また「不安だ」「怖い」と言う言葉をすぐにネットでつぶやいてしまうのも、仕方がないのだがpublic mindが少し足りないのだと思う。
そりゃ誰だって怖いさ。
そりゃ誰だってあの映像を何回も見ればどうしようもない気持ちになるさ。
でもそれは「私」の気持ち。
世の中に言葉を発する時はpublic mindを持って、「みんな立ち上がろうぜ!」と叫ぶのだ。
僕がここで
「ぶっちゃけ怖くて逃げたい。気持ちが整理出来ない。
ライブも嫌だ。
姫路に帰りたい。」
なんて書いたらえらい事になる。
もちろんそんな事は思ってもいないが。
だから僕はこの日記を書いている時はpublic mindを強く意識している。
福島の原発でどれほど放射能が漏れているのかわからないのに、そこへ向かった東電の社員、ハイパーレスキュー、自衛隊の方々。
これはpublic mindいがい何ものでもないと思う。
本音を言うと、誰もいきたくない。
みんな怖かったと思う。
でも、そんな「私」の気持ちよりも誰かがいかなければどうなるんだ!というpublic mindが働いたのだろう。
医療用の通信機を持ち出す為に津波に巻き込まれた方の記事を昨日読んだ。
ここにもpublic mindがあった。
オレならどうしただろうか?
いの一番に逃げたのか?
それともその他大勢を助ける為にそこに残りやるべき事をやったのか?
死の淵に立った時。
僕らはどう行動をとるのだろう。
僕は少し分かった事がある。
public mindとは守りたいものがある時にはじめて出てくるものだと思う。
守りたい人。
家族。
愛する人。
友人。
愛した故郷。
「私」の感情を超えて、「死」さえも超えてpublic mindは立つ。
守るべきものの為に。
もちろんこれは決して死ぬ事が美しいだなんて言っていない。
ただ死ぬのが怖い怖いと他人を足でケリ落としてまで、生き延びようとする事がこの国の教えになりつつある。
みんなpublic mindを持とう。
今はなるべく「私」をひっこめよう。
心ない言葉をしまい、活力となる言葉を掲げたい。
君の一言が誰かを救う。
君の行動が世界を照らす。
public mindをもつために、守るべきものを見直そう。
守るべきものを愛そう。
大丈夫、僕らは強い。
追記、とはいえ、今回の地震で東京の電車が止まり帰れなくなった時に、無料で場所を提供した多くの施設や、ホテルや、企業、一般の店舗。
自動販売機を無料にしたサントリー。
たくさんの素敵な日本人の姿も見れた。
この事は僕は日本人として生まれて来て良かったなぁと大変誇らしく思う。
追記2、このpublic mindについてはもう10年近く前にも一度書いていました。
2011/03/23
東京に帰ってきました
コンビニにガランと空きがある棚。
閉まっているガソリンスタンド。
24時間営業のはずが22時がラストオーダーになっているファミリーレストラン。
普段はきらびやかな街が節電で真っ暗で足音がどこまでも響きそうであり、足跡が飲み込まれそうに思えてしまう事がある。
あぁ、僕は東京に帰って来たんだなぁと実感した。
姫路のライブ。
僕は幸せでした。
歌う事のありがたさ。
歌う事の意味。
みんなが今日まで何を待っていたのか。
よくよく分かったライブでした。
午前中のライブは、4曲目くらいまで体が上手くついてきませんでした。
あんなことはあまりないのですが、地震後、初めてのライブ。
自分で言うのもなんですが、この僕とてやはりそうなってしまいました。
「木ニモナレズ鳥ニモナレズ」を歌っている時はギターと体が一体となるあの感じが蘇ってきました。
改めて僕にとって歌う事は心と一体なんだと思った。
夜はエネルギッシュなライブとなった。
見に来てくれた人が楽しそうなのが何よりだった。
ここ数日のストレス発散?
ずっと歌が聴きたかった?
どれもそうであり、どれも違う気がする。
僕らはただ音の波を泳いだ。
クタクタになるまで。
今度は4月16日に姫路でワンマンライブがある。
この時期にワンマンライブが出来る事を僕は前向きにとらえようと思う。
ありがたいとさえ思う。
タイトルは「CHANGE MYSELF」
みんなが足を運んだ事があるライブハウス。
あそこにはいつでも歌がある。
いつでも希望がある。
どんな悲しみも乗り越えようとする未来に繋ぐ詩がある。
4月16日、みんな集まろう。
ライブ告知じゃない。
俺たちの決起集会だ。
最後に。
僕は募金に関してはずっと昔、学生時代からクエスチョンがあった。
今回に関しても東京はこれから大変になると思う。
ファミレスでも22時に閉まってしまうような状況。
多くの人の給料に来月以降影響があるだろう。
そんな中で募金を呼びかける事。
いろいろ悩んだが。。。
もし僕に影響力なんてものが少しでもあるならば、呼びかけたい。
みんな募金しよう。
来月以降厳しくなるかもだから、関東近郊の方は無理しないで。
そしてぜひ関西の人こそ、募金を呼びかけてほしい。
やはり関西と関東とは温度感が違う。
それは悪い事ではもちろんない。
温度感が違うからこそ募金、義援金を呼びかけるのだと僕は思う。
募金活動の原点は知らない人に知ってもらう事だと思う。
そうじゃなけりゃ自分で働いてそのお金を送れば良いのだから。
募金、節電、今後の立ち振る舞いを考える、いざと言うとき、どう避難するのかイメージする。
今出来る事、ひとつひとつやっていこう。
追記、今回の地震で感じた事、まだ少しだけあるので書かさせてください。
2011/03/19
感情に振り幅を
僕はここ最近、日記を書いていて思った事がいくつかある。
まず、僕は言論人ではない。アーティストなのだ。
自分自身わきまえないとなと少し反省。
でも伝えたいメッセージがある限りは言葉を残しておきたいなと。
で、その伝えたいメッセージは、被災地の方ではなく、都内近郊に住む人に向けてなんだと書いていて驚いた。
でも、それがリアルに僕に出来る事なんだろうなと。
さ、書くか。
いくつか書きたい事があるけれど、今日は感情の振り幅の話。
現代人、感情の振り幅が狭いよなぁと思う。
感情に遊びがない。
ちょっとした事で感情の振り子は揺れ、すぐに怒りになるし、悲しみになる。
振り子を想像して欲しい。
本来は怒りに到達するまで振り子は思いっきり揺れないといけないし、その反動で笑いの感情にも振られないといけないのに、すぐに怒りに直結してしまう。
僕もよくラジオで怒っている事を話したりするけど、音楽に関してはほんと。
でも、プライベートで怒った事に関してはネタとまでは言わないけれど、笑いにもなりうる話。
本気でいらついたり怒っているわけではない。
怒りや悲しみはすこし感情に余裕をもたして欲しい。
怒りや悲しみの反動には必ず笑いがある事も覚えていて欲しい。
勿論笑えない時もある。
でも、ほとんどが笑える。
振られた記憶も、いつか笑い話になる。
わめき散らしたような怒りも笑い話になる。
人間だけが持つ感情、笑い。
素敵な事だと思う。
買いだめしている人や、節電していない人を見てイライラするのではなく、少し感情にゆとりをもって、ヤレヤレとトホホ顔で笑ってやって欲しい。
バカにするのではなく、思春期の子供を見るように「もう、しかたない子ねぇ」と。
そして怒る事も大切なんだけど、いったい何が足りないのか?そこまで思考を巡らす事が出来ればはじめて怒っていいような気がする。
僕は買いだめに関しては先日も書いたけど、笑ってしまう。
米を買いだめしてどうする?
米を炊くは水、火がいる。
買いだめするほどの災害時、使えるのか?
自分の家は大丈夫なのか?
それほどの災害ならば、避難所にいかなきゃ行けないだろう。
そのときその米を持ち出すのか?
また避難所に持ち出したところで「これはオレのだからみんなは食うな!」と言える強さがあるのか?
以上の事から僕は突っ込みを入れてしまう。
これは怒りよりも笑いに近い。
勿論バカにした笑いではなく、やれやれである。
ACのコマーシャルで怒っている人もそう。
ACのコマーシャルはスポンサーが急遽降りてコマーシャルがなくなった時に穴埋めで流れるもの。
たしかにこの地震の災害の時に「今地球では貧困に」なんてコマーシャルされても、今それどころちゃうねん!と言いたくなるのは分かるが、ここは突っ込みで終わっておいて欲しい。
少なくとも被災地でない人は怒っちゃいけない。
やれやれとACを責めるでもなく、笑って突っ込むのは不謹慎な事ではない。
すぐに怒りや悲しみに直結せずに、感情に振り幅を。
そして人に理解を。
ダメな人にも理解を。
怒ったとき、悲しい時こそ、一旦立ち止まり、そのモノ事に突っ込みを。
笑いは素晴らしい。
2011/03/18
頑張る
みんな元気か?
元の気を満たしているか?
元気を出そうとしているか?
いつの頃からか、この国では「頑張る」という言葉が効力をなくしていった。
安っぽい歌をはじめ、たくさん使い古され効力が薄れたのも理由のひとつ。
もう一つは「頑張れ」と言う言葉が頑張れない人を追いつめるというのが流布したことだろう。
僕はこの事がとても残念だ。
今、頑張るという言葉使う時は必要以上に慎重になってしまう。
僕の大好きな言葉なのに。
そもそも頑張るの語源は?
2つあるというのを聞いた事がある。
ひとつは「眼張る」からきた説。
目を見張る、つまり同じ場所に張り付くという意味。
もう一つが、「我を張る」からきた説。
僕はこの「我を張る」説を今は押したい。
東北地方の「けっぱる」が「気張る」からきたように、「我を張る」が頑張るの語源であれば今は素敵だ。
個人的感情はこのさいどうでも良い。
今はみんな誰の為でもなく「我を張る」のだ。
この我はpublicな我。
辛かろうが、哀しかろうが、むなしかろうが、虚無感だろうが、我を張るのだ。
ご家族をなくされた被災地の方が気丈に振るまっている中、僕らがなにを落ち込んでいることがあろうか。
それこそ下手な同情は失礼である。
我を張ろう。
日常を送れといったけど、東京も節電などで僕も日常を送りきれていない。
ライブだって関東では出来やしない。
でも、日常は生活だけではない。
精神のたたずまいだ。
日常がないなら取り戻そう。
復興は既に君の一日の中にもある。
こんなときだからこそ優しくなろう。
価値観の違いを責めちゃいけない。
差別があってもいけない。
理解出来ない事を理解しようと考えてみよう。
被災地にいない僕らが出来る事の一つ。
みんな我を張れ。
わがままな我ではなく、おのれを張れ。
本当は背骨がひんまがりそうな曇りの日も、無理矢理胸を張って凛とたたずまいを正すのだ。
みんな頑張れ!!
みんな頑張ろう!!!
さすがに被災地の方にむけて簡単に頑張れとは簡単には言えない。
言いたいけど言えない。
だからまずは僕らから頑張っていこう!
元の気を満たしているか?
元気を出そうとしているか?
いつの頃からか、この国では「頑張る」という言葉が効力をなくしていった。
安っぽい歌をはじめ、たくさん使い古され効力が薄れたのも理由のひとつ。
もう一つは「頑張れ」と言う言葉が頑張れない人を追いつめるというのが流布したことだろう。
僕はこの事がとても残念だ。
今、頑張るという言葉使う時は必要以上に慎重になってしまう。
僕の大好きな言葉なのに。
そもそも頑張るの語源は?
2つあるというのを聞いた事がある。
ひとつは「眼張る」からきた説。
目を見張る、つまり同じ場所に張り付くという意味。
もう一つが、「我を張る」からきた説。
僕はこの「我を張る」説を今は押したい。
東北地方の「けっぱる」が「気張る」からきたように、「我を張る」が頑張るの語源であれば今は素敵だ。
個人的感情はこのさいどうでも良い。
今はみんな誰の為でもなく「我を張る」のだ。
この我はpublicな我。
辛かろうが、哀しかろうが、むなしかろうが、虚無感だろうが、我を張るのだ。
ご家族をなくされた被災地の方が気丈に振るまっている中、僕らがなにを落ち込んでいることがあろうか。
それこそ下手な同情は失礼である。
我を張ろう。
日常を送れといったけど、東京も節電などで僕も日常を送りきれていない。
ライブだって関東では出来やしない。
でも、日常は生活だけではない。
精神のたたずまいだ。
日常がないなら取り戻そう。
復興は既に君の一日の中にもある。
こんなときだからこそ優しくなろう。
価値観の違いを責めちゃいけない。
差別があってもいけない。
理解出来ない事を理解しようと考えてみよう。
被災地にいない僕らが出来る事の一つ。
みんな我を張れ。
わがままな我ではなく、おのれを張れ。
本当は背骨がひんまがりそうな曇りの日も、無理矢理胸を張って凛とたたずまいを正すのだ。
みんな頑張れ!!
みんな頑張ろう!!!
さすがに被災地の方にむけて簡単に頑張れとは簡単には言えない。
言いたいけど言えない。
だからまずは僕らから頑張っていこう!
2011/03/17
日常を送る
全国のみんな元気か?
そして東北のみんな、こんな大変な時なのに寒さまで襲って来て心が折れるところか、欠片になっちゃいそうやけど、負けちゃいかん!
顔を上げような。
東北のみんなには申し訳ないくらい、東京を含め僕らは情けない。
申し訳ない。
総括しますね。
って、誰やねん!!って言われそうだけど。
まずね、地震が起きて、あの映像を見て日本中がダメージを受けた。
それは心にも。
みんなうつむいていた。
でも、俺たちに出来る事はたかが知れている。
オレってなんて無力なんだろう?って思ったところで、己の無力は今に始まったことではない。
親父の言葉「今考えてどうにかなる問題ならば、考えろ!そうじゃなかったら時間の無駄」
漫画ベルセルクの言葉「両手合わせて祈る暇があったら、その両手を使って戦え!!」
この2つの言葉がよぎった。
捉え方はいろいろあるだろうけど、もちろんプラスに考えてほしい。
僕はここで日常生活を送る事こそが日本の経済に繋がり、廻り回って復興の手助けとなるのだ。
それが今出来る一番の事だと書いた。
やがてうつむきがちな人が顔をあげたら、まわりの言動が気になった。
今度はちょっとした価値観の違いや、デマや、もういろんなことが合わさって、誰かが誰かを非難するようになった。
チェーンメールを送った人に。
買いだめしている人に。
政治家に。
もうやめようぜ。
神様と言うものがあるならば、神様の思うつぼ。
おろかすぎる。
今は誰かを非難する時期ではない。
今は落ち込んでいる時期ではない。
被害に遭われた方が顔を上げている中、俺たちがふさぎ込んでいる時期ではない。
無理矢理、東北にいるたいして被害のない人と知り合いだと言うだけで被害者ずらしている時期でもない。
被害の少なかった俺たちは、見えない誰かのために、未来の日本の為に、廻り回っていつかの自分のためにも変わらぬ日常を過ごさなければならない。
買いだめしている人にはどうか政府から教えてやってほしい。
そんなに水を買い込んでも、家がつぶれたら元も子もない。
それだけの水や米を買うってことは、それだけの災害が来る事を想定しているのであろう。
そんなとき、なんで自分の家は大丈夫だと思うのか?
東京人、しっかりしろ!
パニックになるな。
買いだめする必要はない。
考えよう。
モラルをもとう。
もう一度書かせてほしい。
これを最後に非難はやめよう。
揚げ足を取るのもやめよう。
変に不謹慎だとか思わないようにしよう。
そして顔を上げよう。
俺たちまで暗くなったら未来は曇っていく。
笑え!
変わらぬ日常を送れ!
愛する人を精一杯愛せ!!
地震直後の3月12日の日記で僕は歌う事に迷っていた。
あれから数日経って、今猛烈に歌いたい。
届けたい歌が、メッセージがある。
21日の姫路Betaは当然ライブをする。
昼と夜の2部制。
たっぷりと歌おうと思う。
僕の変わらぬ日常を送るのだ。
そして東北のみんな、こんな大変な時なのに寒さまで襲って来て心が折れるところか、欠片になっちゃいそうやけど、負けちゃいかん!
顔を上げような。
東北のみんなには申し訳ないくらい、東京を含め僕らは情けない。
申し訳ない。
総括しますね。
って、誰やねん!!って言われそうだけど。
まずね、地震が起きて、あの映像を見て日本中がダメージを受けた。
それは心にも。
みんなうつむいていた。
でも、俺たちに出来る事はたかが知れている。
オレってなんて無力なんだろう?って思ったところで、己の無力は今に始まったことではない。
親父の言葉「今考えてどうにかなる問題ならば、考えろ!そうじゃなかったら時間の無駄」
漫画ベルセルクの言葉「両手合わせて祈る暇があったら、その両手を使って戦え!!」
この2つの言葉がよぎった。
捉え方はいろいろあるだろうけど、もちろんプラスに考えてほしい。
僕はここで日常生活を送る事こそが日本の経済に繋がり、廻り回って復興の手助けとなるのだ。
それが今出来る一番の事だと書いた。
やがてうつむきがちな人が顔をあげたら、まわりの言動が気になった。
今度はちょっとした価値観の違いや、デマや、もういろんなことが合わさって、誰かが誰かを非難するようになった。
チェーンメールを送った人に。
買いだめしている人に。
政治家に。
もうやめようぜ。
神様と言うものがあるならば、神様の思うつぼ。
おろかすぎる。
今は誰かを非難する時期ではない。
今は落ち込んでいる時期ではない。
被害に遭われた方が顔を上げている中、俺たちがふさぎ込んでいる時期ではない。
無理矢理、東北にいるたいして被害のない人と知り合いだと言うだけで被害者ずらしている時期でもない。
被害の少なかった俺たちは、見えない誰かのために、未来の日本の為に、廻り回っていつかの自分のためにも変わらぬ日常を過ごさなければならない。
買いだめしている人にはどうか政府から教えてやってほしい。
そんなに水を買い込んでも、家がつぶれたら元も子もない。
それだけの水や米を買うってことは、それだけの災害が来る事を想定しているのであろう。
そんなとき、なんで自分の家は大丈夫だと思うのか?
東京人、しっかりしろ!
パニックになるな。
買いだめする必要はない。
考えよう。
モラルをもとう。
もう一度書かせてほしい。
これを最後に非難はやめよう。
揚げ足を取るのもやめよう。
変に不謹慎だとか思わないようにしよう。
そして顔を上げよう。
俺たちまで暗くなったら未来は曇っていく。
笑え!
変わらぬ日常を送れ!
愛する人を精一杯愛せ!!
地震直後の3月12日の日記で僕は歌う事に迷っていた。
あれから数日経って、今猛烈に歌いたい。
届けたい歌が、メッセージがある。
21日の姫路Betaは当然ライブをする。
昼と夜の2部制。
たっぷりと歌おうと思う。
僕の変わらぬ日常を送るのだ。
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